8月も後半に入り、暦の上ではとうに立秋(2017年は8月7日)を越え、夏もその終盤へと向かう時期になってきたようです。乃木坂462017年夏曲『逃げ水』(8月9日発売)は、「夏曲」と言いつつも、実のところ立秋の2日後にリリースされました。3rdシングル『走れ!Bicycle』以来、実に5年ぶりの8月リリースです。乃木坂の夏曲としては少し遅い発売といえるでしょう。

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『逃げ水』の歌詞も、そうした発売時期を意識したのか、これまでの夏曲よりも遅い時期――晩夏を想定した歌詞となっているようです。「ひと夏の熱狂は…醒めていくのか」「過ぎるその季節」「半袖を着たひとはカーディガンをいつ…羽織るのか」。夏に向けて気分を盛り上げていくというよりも、晩夏特有の切なさ――華やかな季節を見送る追想と感傷、物悲しさを歌った楽曲といえるでしょう。悲しさや切なさを歌う点は、実に乃木坂らしいといえますが、基本的に落ち着いた楽曲が多い乃木坂にあって、夏は唯一「ライブでノれる表題曲」を提供してくれる機会と期待しているファンの方も多いらしく、その曲調に戸惑う意見も割合に見られるようです。もっとも、(複数枚購入者が多いとはいえ)CDの売り上げではすでに100万枚を超えるようになった今の乃木坂46では、ファン全体の好評価を得る作品をつくることは難しくなっているとも言えるでしょう。

戸惑う意見がよく見られたという点では、『逃げ水』のMVも同様です。ただしこちらに関しては、「ファン全体の好評価を得ることが難しくなっている」といった一般論で片付けられないところがあります。なにしろ監督を務めたのは、これまでも多くの問題作(?)を撮ってきた山岸聖太氏。空からナンが降ってきたり(12thCW曲『別れ際、もっと好きになる』MV)、頭から変な袋を被ったり(16thCW曲『あの教室』MV)、その独特な作品の数々は乃木坂関係の映像作家の中でもかなり異色。その作風は、一言で言うなら、いわゆる「シュール」。理不尽で理解不能。けれど、どこかクスっと笑えて、映像としての美しさやインパクトがある。そして、メンバーの思いがけない魅力を引き出してもいる……。思えば、メンバーの堀未央奈に「クレイジー」というイメージが生まれたのも、山岸監督が撮った個人PV『ゆるす!』(10thシングル『何度目の青空か?』収録)の影響が大きいでしょう。
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  さてそんな、「シュール」な作風を得意とする、山岸監督による『逃げ水』MV。ある意味では期待に違わず、やはり一見して理解不能で、監督ならではの奇抜な趣向が横溢しています。筆者は楽しく見させてもらっていますが、 いっぽうで先述した通り「意味不明だ」と戸惑っている方も多いらしく、評価は分かれているようです。「意味不明なものを意味不明なものとして、あるがままに受け取る」。そうした鑑賞の仕方も、個人的にはむしろおおいに良いと思うのですが、「意味不明」なものは、そのままではすんなり頭に入ってきにくいことも確かです。そこで、「シュール」な作風をわざわざ解説する野暮さを承知の上で、筆者なりに読み解いてみたいと思います。

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  さて、みなさまはこの『逃げ水』のMVをいつご覧になられたでしょうか? もちろん、熱心なファンの多くは、ネットにアップされた時点で見られたのではないかと思います。けれども、それはあくまで事前の宣伝のために、マーケティングの都合で先行公開されたものであって、制作スタッフは正式な発売日にみなさまの手元に届くことを想定して作品を作っているものと思われます。つまり、発売された8月9日当日、そしてその後の数日ないし1週間ほどの間に、ファンのみなさまが目にするものと想定して作られていると考えられます。実際に、CDが手元に届いてから、あらためてMVを目にされた方も多いのではないでしょうか。さてその頃――つい最近の話しですが、みなさまは、CDを開封して作品を楽しむ以外に何をされていたでしょう? 中には、幸運にも「乃木坂46真夏の全国ツアー」仙台公演へ行っていたという方もおられることでしょう。けれども、それよりもむしろ帰省されていた方が多かったのではないでしょうか。もしかすると、高速道路の渋滞に巻き込まれた車中で、『逃げ水』MVを鑑賞された方もおられたかもしれません。

そう、このMVは、盆休みのシーズンに見られることを前提として作られていると考えられるのです。というよりも、このMVの基本的なイメージそのものが「盆」なのではないでしょうか。そのことは、ラストのダンスシーンに強烈に示されています。灯籠や供花、そして畳で構成されたセットは、まさに盆の風景そのものでしょう。ただし、このMVが意識しているのは、単なる祭りとしての側面ではないように思えます。「盆」――正式には、「盂蘭盆会」。身近に死者がいない方にはピンとこないかもしれませんが、本来は死者を迎える日であり、その鎮魂のための日です。華やかな季節を見送る晩夏とは、同時に今は亡き死者を追悼する季節でもあるのです。このMVが意識しているのは、そうした「盆」のように思えるのです。実際に、死を連想させる記号はヒントのようにMVに散りばめられています。冒頭に配されたカラス。侍女たちの漆黒の衣裳。晩夏の伊丹家邸宅もまた、死者たちを迎え入れ、弔う場だったとすれば――喪服のような衣裳を着た侍女たち(緒川たまきさん、齋藤飛鳥、大園桃子、与田祐希)は弔う側の者たちでしょう。では、それ以外の伊丹家の面々とは――?
緒川たまき

たまき
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  筆者がこのMVについて考察するようになったきっかけは、初めて見た時から覚えていた、ある違和感でした。それは登場人物達の距離感、あるいは互いに対する認識のズレです。侍女役の緒川たまきさんと齋藤飛鳥、大園桃子、与田祐希の四人は同じカットに同時に映っていて、お互いを認識し合っている描写があります。しかしそれ以外のシーンでは、基本的に新米侍女役の大園桃子と与田祐希が一方的に伊丹家の奇妙な面々を目撃しているだけで、伊丹家側の人間は新米侍女の存在に気付いてもいない様子です。齋藤飛鳥にいたっては、最後のダンスシーンを除いて、侍女以外のメンバーとの共演カットそのものが一切ありません。MVの物語世界の中で、齋藤飛鳥は同僚である侍女以外の誰とも顔を合わせていないのです。コメ派やパン派とシンクロしたダンスシーンはありますが、そこでも齋藤飛鳥は一人で踊っていて、カットの撮影の仕方からは、まるで柱か壁によって、他のメンバーからは隔絶しているかのように描写されています。果たして、伊丹家邸宅に集う彼女たちは、同じ“世界”に存在しているのでしょうか? むしろ、侍女たちとそれ以外の伊丹家の人間は、少々違う“世界”に生きているように見えます。新米侍女たちの側からは見えるけれども、もう一方の側からは認識されない……。「僕が見ているもの それが真実でも幻でもかまわない」――『逃げ水』の歌詞はそう語りますが、果たして、新米侍女たちは何を見ているのか――? 
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――その答えは、伊丹シンウチとそれを見る新米侍女二人の描写が、露骨過ぎるほどに示しているように思われます。なぜ彼女は宙に浮くのか? 公式には「疲れすぎると宙に浮く」と説明されていますが、それだけではあまりにも突拍子ありません。けれどもある仮定をすると、すんなりと理解できます――もし彼女が“この世ならざる者”だったら? 新入りの侍女二人が、びくびくとしながら、夜中に古い旧家を見回って、宙に浮く女性を目撃し、恐怖して逃げる――もしこれが心霊譚であったなら、突拍子もなかった描写が、むしろ典型的といえるほど納得できるものに一変します。侍女たちが見ているもの、それはこの世のものではない――彼岸の存在なのではないでしょうか?

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現世にとどまる死者は、「この世に未練がある」と俗に言いますが、まぁみごとに伊丹家の面々の執着が強いこと……。それぞれに未練があって、この世に残っている魂のようです。「伊丹家は不可思議な屋敷です。何を見ても決して驚かれぬよう……」という冒頭の緒川たまきさんの注意喚起の言葉も、まさに心霊譚にこそふさわしいものと言えるでしょう。侍女たちが弔う側の生者で、それ以外の伊丹家の面々が死者――そう考えると、侍女の中に「伊丹姓」を持つ者がいる理由も分かります。侍女の中に「伊丹アスカ」がいることには、ネットなどで疑問の声が上がっていました。身内の者がなぜ侍女になっているのか?――と。けれども、伊丹家の死者を弔うのが侍女たちの役割なら、その中に親族がいてもおかしくない、というよりも、弔う側の親族代表として当然いるべきなのでしょう。劇中の齋藤飛鳥は、その役割に倦んでいるようですが、それもある意味でリアルなような気がします。法事は、とくに若い人には、正直退屈なものですから。けれどもいっぽうで、眠りに落ちて意識を喪失している「伊丹アスカ」が、意識を喪失したままに踊り出す描写を見ると、彼女はすでに伊丹家の死者たちに「憑りつかれている」ようにも思えます。

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 そしてなによりも雄弁な、鎮魂のラストシーン。これこそが、このMVのメッセージをもっとも明確に物語っている箇所でしょう。ダンスの振り付けと映像は、それぞれ個別に制作が行われていると思われますが、しかし本作に関しては、このダンス最後の振り付けを踏まえて一連のシーンのセット――あるいはMVの全体像が構想されたのではないかと筆者は想像しています。灯籠や仏花が供えられた空間に、すっと礼儀正しく正座して、手を合わせ祈りを捧げるメンバーたち。この、盆の情緒溢れるセットでの祈りの姿勢には、この世ならざる存在への追悼の念がはっきりと籠められていることと思います。

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そういえば、このラストのダンスシーンへと至る直前に、本作選抜メンバーはこう歌いあげています。「手を伸ばしても、何も触れられない でもそこにあるってこと信じるまっすぐさが 生きていく力だよ」。触れることのできない、大切なもの。けれどもそれを祈念することが、生者の力となる――まるで、親しき死者への追慕の想いを歌っているようにも聞こえませんか……?

 

 盂蘭盆会。6日。15日。そして本作発売日の9日。

――8月は、鎮魂の月。
              (ライター:まっしも関西)